楔43本目 私という実像

私は余計なことを考えず、ただひたすら仕事に打ち込むべきだと考える。結婚してからというもの、何かに対して全力で取り組んだことがない。安藤忠雄氏が建築家を志して、朝から晩までひたすら勉強すると決めて実際にやり遂げた、という話を昨日たまたまインターネットで見た。私にはそのようなのめりこみが必要だ。ただし私は強い不安を感じている。将来に対する不安だ。しかし不安を感じたところで何も前に進まない。自らを前に進める原動力となるのは希望と危機感だ。私には、不安は非常に強いが実は危機感は全くない。なぜなら、あらゆる失敗をしてもそれに対して直面をしないからだ。なぜ私は失敗に正面から向き合おうとしないのか。ただ動けばよいというものではない。私は現実を見ていない。そう、今書いていて、私には希望も、特に危機感もなく、ただ将来が不安だがまだ大丈夫だと思いながら、毎日がつまらないと思いながら、だらだら日常を流して生きているのだ。私は流されているのではなく、流しているのだ。現実に向き合うこともなく、周囲を見ることもなく、ただぼーっとしているのだ。それでよいのか、よいはずがないだろう、という危機感すら出てこない。魂の死とも言ってよい状況だ。これはいったいどうしたことなのか。

 

私は心の奥底で、「このままではいけない」とは全く思っていないのだ。人生をよりよく生きるということを、もはや諦めてしまっている。これまでの実績、年齢、体力の低下、コミュニケ―ションが取れていないこと、会社においても、何か成果をだそうと頑張るわけでもなく、これよりもパフォーマンスを下回ってはいけないというところに近づくと頑張る、という感じ。部署のトップはそれを見抜いていた。私は、決断をしない限りずっとこのような人生を歩むことになる。

 

私は余計なことを考えすぎだ。不安だから考えているのだが危機感はないのだ。現実をきちんと見ていないからだ。理屈では理解できない。腑に落ちない。

 

同期にも抜かれるかも。また事業会社へ行ったとして、同期レベルかそれ以下になるだろう。なぜなら私には強みというものがないからだ。

 

これは非常にまずい。のこるなら残るできちんとパフォーマンスを上げなければ居場所がなくなる。転職するならするで、面接の練習をビデオで撮り、人に見てもらうくらいのことをしなければならない。

自分の人生は自分で切り開くのだ。