楔35本目 自分の使命について徹底的に考え抜く

自分の使命というと、何か特別な人間だけが考えること、という感じを受けるかもしれないが、漢字通りに解釈すると、自分の命の使い方、ということである。私は何のために生きているのか。毎日ご飯を食べて屋根の下で寝るために生きているのか。毎日ご飯を食べられて、屋根の下で寝ることができるだけでも本当に幸せだ。私は明日もそういう一日であることを疑っていない。これは本当に幸せなことだ。しかしそれに満足をしていてよいのか?学校で基礎学力を身に着けることができ、インターネットに接続できるので学ぼうと思えば世界中のあらゆることを学ぶことができる環境にある今、最低限の仕事をして家に帰ってきたら寝るだけ、ぼーっとするだけ、という生活をしていてよいのか?私はなぜこれほどまでに怠惰なのか。

本当ならばプレゼンの練習をしなければならなかった。あるいは、出張報告を書いておかなければならなかった。それをしなかった一日だった。

どうしてこういった怠惰な過ごし方をしてしまうのか。

忙しいと思っても夜22時には寝ると決めてしまうことだ。結局先延ばししてやらないのだから。

楔34本目 自分の人生は自分で作り上げる

受験勉強をするときに、すぐに塾にいく生徒は成績が伸びないだろう。なぜなら、自分で考える姿勢がないからだ。社会人になっても同様で、自分に必要なことを分析し、時間がない中で自分で時間を作り、少ない時間の中で自己研鑽を重ねる力が必要だ。どこかに行って、徹底的にビジネストレーニングをしてくれる場所などない。自分に必要な事柄を分析し、一つ一つ順序立てて身に着けてゆくことこそが、自らを鍛えるのだと思う。外部講義を聞いて、スキルを片耳にいれることができるかもしれないが、理解するために必死に考えるということになると書籍のほうが頭を使うことになるし、そもそもスキルよりももっと重要なことがある。それは、自分が何をしたいのか、ということだ。一言でいうなれば志ということであろうか。これなしに勉強をしたところで、何も見につかないであろう。志を立てること。まずはここから始まると思う。

楔33本目 過去は過去でしかない。先のことだけを考えて今やるべきことに集中する

最近、驚くほどに20年前頃のことをリプライさせる出来事が多い。とても多い。一昨日は18年前に出会った方と久しぶりに会食をさせていただき、本日はだんじりを見に京都から岸和田まで子供を連れて行ったのだが、たまたま帰り道で大阪本場のミックスジュースを飲んでみたいと思い途中下車した駅が、丁度20年前に私が親に反対を振り切り一人旅をした場所であった。自分の来し方行く末を考えているタイミングでとんでもない所へ降り立ったものだと思った。

自分の意志で行動しようとした時だけ、抜けるような青空を感じた。自分の意志で生きていないときは、同じ空でもモノクロにしか感じられなかった。丁度20年前のお盆の夏に19歳だった私は、「インターナショナル」の生演奏をその公園で聞きながら、夏の青空を見上げていた。

駅からその地に降り立った本日、さっそく近くにいたおじいさんから、「あれ落としたんじゃないですか」と尋ねられた。全く私のものでなかったが、その気遣いが優しかった。私はこれらの方々に比べれば、学校に行くこともできたし、社会に対する知識もあった。恵まれすぎているだろう。しかし私が少額の募金をしたところでこの現状は変わらない。

とにかく前に進むことだ。ノスタルジックに過去を振り返っていても何も変わらない。

楔32本目 一か月ブログを継続した。

無事に1か月継続はした。仕事でかなりの遅れを出し、職場での信用も含めて相当苦しい気分になってきている。そもそも私は外から入ってきた人間。このままではまずいという焦り、一方で今の延長線上に幸せな自分の仕事はないことも確信。ふらふらしているうちに秋学期が始まる恐怖。全く予断を許さない状況だ。

今は黙って仕事の遅れを取り戻すことに集中するしかない。9月までに何とか全力ダッシュで追いついて、10月からは、お世話になった女性が高校生の頃に読破して精神的困難を乗り越えた、という書籍を読み漁ろう。自分で自分の問題を解決してゆこう。

楔31本目 愛のために生きる

今日は18年来の知人女性と会食させていただいた。講演で国内を飛び回る傍ら、旦那さんの経営する会社の取締役を務めていらっしゃる女性である。4時間以上、みっちりお話をしていただいた。私のことについても真摯に話を聴いていただいた。

学んだこと、気づきは上げだしたらきりがないが、一つ上げるとしたら、愛に基づいて生きる、ということである。私は感謝と懺悔をエネルギーにして生きていると伝えた。その時に、愛と感謝と懺悔は言葉の波動がちがうね、と言われた。感謝は、人に何かをしていただいたから、私もこれをお返しします、という考え方。懺悔は、これほど私は何かを人にしていただいたのに、期待される成果を出すことができなかった、というもの。これに対して、愛は見返りがないもの。帰ってこないことを覚悟して与えること。これが大切であるとのこと。つまり、他社から何かしていただいたことに対する何か、ではなく、自ら相手に発信する善意であるという違いだ。

この点は、自力と他力の話ともつながる。愛の領域は、他力の世界である。他力の世界とは、自分の力だけで物事に対処するのではなく強い信念に対して、おのずと誰かが現れて必要な何かを提供してくださるというものである。稲盛和夫さん、天外伺朗さん、福島孝徳先生、みな同じ論理で動いている。宇宙のエネルギーをいただいているので疲れない。

私は理論から入っているのでこの話はとてもよく納得できるが、やはり私は愛がどういうものか理解できない。少なくとも自分の奥さんのことは愛しておらず、自分の子供は自分の子供だと思えない。自分の部屋のものや、職場の人でも好いと思う。とにかく楽しい雰囲気を出すようにしたり、目を見て笑顔で挨拶したり、ということでよいのだと思う。そして、気の合う友人と会食を重ねることだと思う。人は人からしか学べない。あらゆることが機械に置き換わってゆく中で最後まで人間を人間タラ占めるものは愛に他ならないだろう。

それから報酬と価値の話も記載しておきたい。報酬を追って仕事をすると疲れる。価値を求めて活動をすると疲れない。宇宙からエネルギーをもらえるから。「自分はお金のためでなく価値のために生きる」と決めているから、価値のほうからその時々にあった必要な出会いがあるとおっしゃっていた。私は、「お金のためにだけ生きる人生は避けたい」とは思ってはいたが、覚悟のレベルまでは至っていなかった。「魂の目標に対して110%の努力をしているか」とも言われた。私はそもそも魂の目標を定めていなかったし、努力もしていない。それは結果が出ないわけであると思った。

要約をすると、愛のために、自分の価値のために生きるということである。そのために自分自身の内面の「Voice」をよく聞くことが重要とのことである。私は変わらなければならない。

楔30本目 やる気がない素振りをみせてはならない

自分の仕事がチームのための、自分は向いていないと思われる仕事に対して、私はやる気なく対処していた。自分はこのテーマではリーダーシップをとる力もなく、期待されておらず、ただサポートするだけ。しかもそこで頑張っても、時間が圧迫されている本業が進んでいないので評価はますます悪くなる。私は自然と、この仕事に手を抜きがちになった。ミーティングの前につじつまを合わせる感じ。そういう私の態度を特に年下はよく見ていた。私は現在のすべての仕事、また、自分の置かれている立場について、全くモチベーションを保てていない。毎日を無駄にやりすごしている。30代後半の重要な時期を、自分がひねくれていたこともあって無為にしてしまった。

私は会社人生が終了してしまったと思っている。重心をかけてできる仕事がないのだ。どれも中途半端で、人に教わりながら実務を進める、つまりマネジメントとしての仕事にいつまでたってもつけない。私がマネジメントをしようと思ったら、今の部署で一番にならなければならない。マネジメントになったところでどうするのか?それが望むことなのか?

100歳の自分は、やりがいのある仕事をやりきって40代でようやく自分が立てる岩盤を見つけたと思ってただろう。現在の私の置かれた状況では難しいだろう。私は何も成果を残していないからだ。自分で成果を出せるように業務をコントロールできる立場ではある。しかし、私の怠惰のせいで、仕事が進まず、周りから流れてくる仕事にいちいち対応しているうちに、一日が終わってしまう。そしてああ今日もつまらなかった、といって終わる。私は毎日の会社生活を心からつまらないと思っている。顔には出していないが、今こうやってブログを書いてみると、つまらなそうな態度を会社でしているのだろうな、と思わざるを得ないような状況だ。とってつけたように、誰かが楽しそうに話していたらそこに首を突っ込むふりをして、やる気のない暗い人ではないように演出をしようとしているが、逆にやる気のなさ、コミットメントのなさが透けて見えるだろう。50人弱のトップダウン、トップがすべてを決済する職場で、トップに✖をつけられてしまったら、会社人生は終了である。この✖はこの会社にいる以上、永遠に残る。私はこの✖を背負って生きていかなければならない。最低の状況である。外に出ようにも、キャリアダウンという形でしか出られないだろう。どうせ出るならば、新しい技能、職能、経験がつめ、自分が心の底からやりがいを感じ、ここで働きたいと思える街を見つけて就職か転職をするしかないであろうと思う。転職を迷ったら、3か月必死で働け、と言われた。私はいい年をした人間であるし、泣き寝入りをするのも何なので、1か月、人が変わったように猛烈に働いてみたい。これでやはり心がついていかなかったら、急ぎよく転職しようと思う。明日9月14日~10月13日、すべての業務に必死に働いてみたい。土日ならば可能であると考えた。

楔29本目 友達と楽しく会話をして会話筋を鍛える

今日の午後は、出張でセミナーに参加させていただける機会があった。2030年あたりの近未来の情報技術についてのセッションであった。参加者は300人を超え、盛況であった。その後、お誘いいただいた会社の他チームの方に食事に誘っていただいた。私は、久しぶりに仕事以外の会話を人とした。恥ずかしながらこれが現実だ。結果的にはうまく相手の話を聴くことができたし落ち着いて会話できたと思う。なんだか引きこもりみたいだが、実質の私はそのようなものだ。人と会話をするための筋力が非常に弱っていると感じる。人と一緒に何か作業をしたり、となると目を覆いたくなるような状況だ。これは、私の実力が足りないのではなく、そういったことをしないがために筋力が衰えてしまった状態に近いと感じる。人と遊ぶ筋が足りないのだ。答えは簡単、優良なたんぱく質を食べて筋トレを継続するのと同様、自分が一緒にいて楽しいと思える人と遊ぶようにすればよいだけの話だ。それをしないから、どんどんその力が弱まっていったのだ。なぜ私がそのように感じたか。

それは、ビジネススクールの同級生がナイスガイだったからだ。そして彼らが楽しそうに交流しているのを見て、自分も友達と遊べばよいのだ、とひらめいたのだ。そしてその遊びを重ねることが、自分の魅力を向上させるのにつながるのだと。最近、40近くなったので思うが、やはり人は一目である程度どんな人か見分けがついてしまう。私を他人が見たら、貧相で友達がいなくて暗い人、人と深い付き合いをしない人と、100人中100人が思うだろう。実際の自分はそうであるし、ふと鏡に映った自分を見て自分でもそのように感じるからだ。そしてその状況に非常に危機感を覚えた。だから、たくさんの人と会おう、ビジネススクールが秋休みになっているうちに、と思ったのだ。

遊び慣れている人には不要な話である。実は私も、大学のころ毎日のように飲み会をしており、どちらかというと活発で、会ったことのない隣の席の人とも仲良くなってしまったりしていた。だから、現状のこの初老のさびしいおじさん、という印象は、努力というか楽しいことをすることで解消できると信じている。100歳の私のありたい姿は、たくさんの友人に囲まれている姿だ。能力が足りなくて今の状況になっているわけではないはずだと信じている。だから、将来ありたい姿に向かって、着実に努力をして行きたい。これもこのブログを書き始めたから生じてきた変化であると考える。