楔49本目 学びの価値

とにかく毎日、心躍る授業を聴けていることを感謝しよう。そうそうたるメンバーから授業を受けることができている。そして一つ一つの講義の内容が深い。なぜ私の心が躍るのか?普段考えもしないような深いところまで問いが進んでゆくからだ。この深さを忘れないようにしたい。

楔48本 The momemt of truth

これはビジネス用語で真実の瞬間、つまり経営者が「このままではまずい」と気づいた瞬間を意味するらしい。ここで初めて、経営者は戦略を立て決断しなければならない。

これは個人の人生においても全く同じだ。「これはまずい」と思った瞬間に次の手を打たなければならない。外部環境の変化についていけなくなったら、いや、自分の内なる目標から明らかにずれてしまったとき、又は自分のうちに秘める物差しとずれてしまった場合、軌道修正できるのはほかでもない自分自身でしかない。

私にとってのThe moment ot truthはいつだろうか?私は高3で勉強をやめ、9月に夜回りで、やはり勉強して医者になる、といった。そのまま進んでおけばよかったのに。そこから人生の軌道修正を、いまだにできていない。このまま流されて終わってはいけない。自らがどのような人間になりたいのかを決めてしまわなければならない。

楔47本目 ブログにネガティブなことしか書けない

タイトル通りである。このところ本当にネガティブなことしか書いていない。いやかけない。努力をしていないわけではない。別に会社でぼーっとしているわけではない。

要するに覚悟を決めてこれをやる、という姿勢でないのだ。そういう生き方でないのだ。それだけだ。生まれてからこのかたずっとそうだ。47日前、温泉で、覚悟を決めて持続可能な社会構築に向けて生きると決めたのではなかったのか?

今の仕事をきちんとやることに集中するだけだ。それだけだ。

楔46本目 何としてもこれを成し遂げたいという意欲に欠けている

大学院の同級生のfacebookを見ていると、一部の同級生は自ら人を巻き込んでいろいろなプロジェクトをやろうとしている。私との差は何か。

彼らは決して素晴らしいビジネスモデルをはじめから描けているわけではない。しかしこの分野で何かやってやろうという強い熱量を持っている。そしてそのような高い熱量を持った人間同士が出会い、互いの熱量を感じあい、チームを結成することで、「何かが起こりそうな」チームができ、教員も巻き込んで雪だるまが大きくなってゆくのだ。私がそこにジョインできない理由は、私が土曜日に大学院に行けないからではなく、私の中でこの分野で何としてでもこんなことをやってやりたい、という熱意をこめられる何かを見いだせていないからだ。とはいえ今いる場所に希望を見いだせるわけでもなく、隣の青い芝を見つけるために必死で外の世界をうろうろさまよっているのだ。そして今いる場所で最低点を確保するために汲々として頭を悩ませている。5の力をクリアできないハードルを1の力でどうやって飛べないのか、飛べないのは上司のせいだ、未熟な組織の戦略のせいだ、などと理由を外部に求めて自らは何もしようとしなかったのがこの2年半だ。私が払わなければならない代償(=無駄にした時間×この2年半で失った信頼)は大きい。外に行きたい理由は、この失敗をチャラにしたいからではないか?一方で年齢的にもう外に出られない。右か左か究極の選択を迫られている。しかも左に道がある保証は一つもない。まだ道自体を勝ち取れていないから。

楔45 自分の成長に責任を持つ

自分を成長させる努力をしなければならないと思った。

私は努力が足りない。毎日腕立て伏せをするだけでも良い。このブログは、あの伊香保温泉以降、欠かさず行っている。一人だけで戦っていては、徐々に怠慢に、志低く、現実離れした理想を持つようになってしまう。

素晴らしい仲間と師匠に巡り合えるチャンスを私は手にしている。逃さない手はないだろう。しかし私は一方で、40歳の壁というものに直面している。。

ヘッドハンターからのメールも来た。

さてどうしようか?何を優先するか?仕事の成果をまとめないと今年の評価はCだろう。

いろいろなことが猛烈に迫ってくる10月。科目は一つ減らしたままがよい。

寝ている暇もないが、しっかりしなければならない。自分の限界を超える覚悟で頑張るべきだ。

楔44本目 反撃の狼煙

本日から秋学期が始まった。授業は外資コンサルタントの元社長が先生。たった10人で、この先生の講義を聴講できることは本当に幸せなことだ。

戦略コンサルタントのプロであるだけでなく、大学や国家プロジェクトにも多数かかわっておられ、大変視座の高い話を伺うことができた。現状、失敗をしないようにだけ、口は災いのもとと考えできるだけ何も余計なことを言わないようにしてきたが、そんなことをしている場合ではないと感じた。もっと自分をレベルアップさせ、もっとより良い仕事をできる人間にならなければならない。

楔43本目 私という実像

私は余計なことを考えず、ただひたすら仕事に打ち込むべきだと考える。結婚してからというもの、何かに対して全力で取り組んだことがない。安藤忠雄氏が建築家を志して、朝から晩までひたすら勉強すると決めて実際にやり遂げた、という話を昨日たまたまインターネットで見た。私にはそのようなのめりこみが必要だ。ただし私は強い不安を感じている。将来に対する不安だ。しかし不安を感じたところで何も前に進まない。自らを前に進める原動力となるのは希望と危機感だ。私には、不安は非常に強いが実は危機感は全くない。なぜなら、あらゆる失敗をしてもそれに対して直面をしないからだ。なぜ私は失敗に正面から向き合おうとしないのか。ただ動けばよいというものではない。私は現実を見ていない。そう、今書いていて、私には希望も、特に危機感もなく、ただ将来が不安だがまだ大丈夫だと思いながら、毎日がつまらないと思いながら、だらだら日常を流して生きているのだ。私は流されているのではなく、流しているのだ。現実に向き合うこともなく、周囲を見ることもなく、ただぼーっとしているのだ。それでよいのか、よいはずがないだろう、という危機感すら出てこない。魂の死とも言ってよい状況だ。これはいったいどうしたことなのか。

 

私は心の奥底で、「このままではいけない」とは全く思っていないのだ。人生をよりよく生きるということを、もはや諦めてしまっている。これまでの実績、年齢、体力の低下、コミュニケ―ションが取れていないこと、会社においても、何か成果をだそうと頑張るわけでもなく、これよりもパフォーマンスを下回ってはいけないというところに近づくと頑張る、という感じ。部署のトップはそれを見抜いていた。私は、決断をしない限りずっとこのような人生を歩むことになる。

 

私は余計なことを考えすぎだ。不安だから考えているのだが危機感はないのだ。現実をきちんと見ていないからだ。理屈では理解できない。腑に落ちない。

 

同期にも抜かれるかも。また事業会社へ行ったとして、同期レベルかそれ以下になるだろう。なぜなら私には強みというものがないからだ。

 

これは非常にまずい。のこるなら残るできちんとパフォーマンスを上げなければ居場所がなくなる。転職するならするで、面接の練習をビデオで撮り、人に見てもらうくらいのことをしなければならない。

自分の人生は自分で切り開くのだ。